創作用別アカウントを作った理由。承認欲求と存在を消すことの両立にハッシュタグは最適

過去の日記

2019年5月21日の日記。

閉鎖病棟に入院してもうすぐ6ヶ月が経とうとしていた頃。

昨年末頃に創作用のアカウントを作った。

作った理由は創作というその行動そのものを自分自身で肯定するための儀式的な意味合いが近かったように思う。

それなのに何かのきっかけから、承認欲求と認知と行動が歪んで治らないことをいいかげん認めたくて、書く。

昨年末頃に創作用のアカウントを作った。

作った理由は創作というその行動そのものを自分自身で肯定するための儀式的な意味合いが近かったように思う。

それなのに何かのきっかけから、承認欲求と認知と行動が歪んで治らないことをいいかげん認めたくて、書く。

私は、「フォロワーを増やすための行動」をやめた方が良いと思う。

なぜなら、本心では興味が無いから。興味のないことをするのはつらいから。

仮にその結果、フォロワーが増えても、いいねが増えてもRTが増えても、本心ではそこまで嬉しいと思っていないから。

興味が無い上に大して嬉しくもないことを「ビジネス的に必要そうだから」でやっても無理。私にその能力は無い。誰も幸せにならないし、私は不幸になる。

承認欲求が薄いということを認めなくてはならない。一般化してはいけない。

承認欲求が薄いんだから、承認欲求が薄いなりの、満足することをしないといけない。満足するために作ったのならば。

人が好き。人と関わりたい。もっと人と話したい。人と人を宣伝しあって持ちつ持たれつ、というのに本質的に興味がないんだと思う。

興味がないことを、無意識だとしてもプロモーションのような気持ちで仕方なくやっていることが滲み出ており、無理矢理感が出てイヤラシイ・媚びている・偽物っぽくなるんだと思う。

別に私は本心では何かを通じて人と関わりたいと思ってないし、不特定多数から賞賛されたい・評価されたい・承認されたいとも思ってないんだと思う。とても残念ながら。

そういうことに根本的に興味が無いことを認めないと先へ進めない。

ちやほやされるための行動をいつも取ろうと思って、イヤラシイくらい頑張って頑張っているのに(そんな自分に嫌気が指しているのに)、よくよく目を凝らすまでもなく、私の行動はちやほやされるための行動からは掛け離れている。

本質的に人に興味が無いんだと思う。それを認めた方が良い。

勿論孤独感や寂しい気持ちもある、人と触れ合いたい、関わり合いたい気持ちも確かにある。

人が好きだし人と関わりたい気持ちだってちゃんと持っている。

人間と触れ合うときに生きていることを喜べるし、矛盾しているようにみえるが人と関わり合えるから孤独に生きる選択ができる。

何より多くの人に助けられて生きてきた。少なくはない大切な人達との関わりがなかったら、絶対に今この世にいない。

承認欲求だってちゃんとある。承認されたら嬉しい。気に掛けてもらえたら嬉しい。いいねやコメントが貰えたら嬉しい。全く何も嘘じゃない。

が、結局のところ、それ以上に「あるがままに生きたい」という願いが大きく上回っているんだと思う。

それは、「自分の興味のあることだけやりたい(興味のあること、には人間が介在しない)」と言い換えることができる。

周りを見ろ。みんなマメである。あの人の良いところを褒めたり、リプライだってよく返すし、宣伝し合うし、みんなマメ。

それは義理人情や義務感もあるけど、多分に私ほど苦じゃ無いんだ。

ちゃんと人に興味がある。

私は、私の作るものにだけ興味がある。誰かの作ったものに興味がある。その人自身には興味が無いし私自身にすら興味が無い。

じゃあ何に興味があるのか?何を報酬とされると嬉しいのか?というところで、承認欲求が薄いのに、なぜインスタグラムをやるか?という話になる。

なぜハッシュタグを沢山つけて投稿するか?

承認欲求が強いからだと思っていたが、ちょっと違うような気がする(いや、承認欲求が強いからなのだが、少し固有の意味を持つっぽいと思った)

まず前提として、私はハッシュタグを付けての発信が合っているように思う。

なぜなら符号化されるから。

写真も人間もハッシュタグによって符号化され、そこに人格を持たなくなる。「誰の投稿か」がどうでも良くなる。同じ人の投稿を何度も見ているかもしれない。でも符号化されているので関係なくなる。

私は私を見てもらいたいのではなく、作品を見てもらいたいのだ。そして、私は自分の存在そのものを抹消したいと願っている。消えて無くなりたい。

自分の存在を抹消したい願い(それはあるがままに生きたい願いとある意味で同じだ)と、作品を見てほしい思いであれば、前者の方が遥かに上なんだと思った。

理想は、「私の存在を抹消した上で、作ったものを不特定多数の目に付く場所にそっと置いておきたい。目に留めてもらえたかどうかだけ知りたい」。

これがハッシュタグによって叶う。

存在を抹消したい。存在を亡き者にしたい思いが強すぎて、表現方法に無理矢理感が出ていて、一周回ってイヤラしく卑しく見えていると思った。

それは結局大してやりたいと思っていなくて、「ビジネス的」に見えるからなんだと思うし実際行動原理としてもそうなんだろうと思う。だから誰も幸せにならない。そんなことをしたいんじゃないし、必要だからでできるほど「あるがままに生きたい」思いが弱くないんだと思った。

ハッシュタグが向いているのはわかった。

全てを差し置いてでも存在を消滅させたい・あるがままに生きたいというのもわかった。

では、それをTwitterの創作アカウントにどう転じさせられるか?

あの創作アカウントの問題点は「媚びへつらっているいやらしさ」だと思う。実際そう見えているかいないかが問題ではなく、私が私自身に対しそう印象付けているのが問題だ。

純粋に淡々と創作物を乗っけたら良いのだ。その過程も乗っけたら良い。創作物を作る方法も。ただそれだけ。

創作のためのアカウントなのに、最近はなぜか、過度に人の目を恐れて、創作に関することを伏せている。

人の目を恐れているのは無理やり人と関わろうとしているからだろう。それを辞めれば良い。

作ったものを淡々と載せたら良い。その時適したハッシュタグを付けて、淡々と載せたら良いだけだ。

作ったものを淡々と載せ、自然と不特定多数の目に付く場所にそっと置いておく。ことで、存在を抹消させることと作品を世に出すことが両立する。


完成品、作り途中の過程、作り方、作る過程を載せたら良い。


人の宣伝とか交流とかは積極的にしなくていい。できる範囲で。仲良くしてくれる人とだけ。

基本的に世界でたったひとりだと思って発信しているくらいがきっと私にはちょうど良いんだと思う。根本的に孤立した寂しい人間だから。いつかそれを認めなくてはいけない。それは誠実さを身に付けることにも繋がるんだと思う。

たったひとりの世界から出たくなったら、誰かに見てほしくなったら、ハッシュタグを付けてそっと置いておいたら良い。きっとそうすることしかできない。

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