もうのこせるだけの言葉がない、という思いをぼんやりと抱えるようになって久しいような気がする。
それは正しい人間になるための道筋なのだろうかなぁ
これってどういうこと?、どういう意味?なぜ?
普通はそんなこと言わない。普通の人はこんなことしない。
そんな言葉でコントロールされることにどこかで慣れてしまっている自分がいます。
その度に私の持っている辞書からひとつふたつと文字が消える。消してしまう。
消してしまうことをもっと抗えば良いのに、そこに躊躇いの余地を挟むことがいつもできない。
できないまま、またひとつ、またひとつと私の頭に置かれた辞書から言葉が消えていくのがわかる。
最近ではごっそり消えてしまって、もはや私の中に言葉は遺っていないのではないかとすら感じます。
もう遺せるだけの言葉がない、いつの間にかなくなってしまっていたなぁ、という思いをぼんやりと抱えるようになって久しいような気がする。
感性を知れるだけの言葉を失って産まれたものがあります。
その人はありのままの言葉を表現して模索しながら、少しずつ言葉から逆算して自分自身を再形成することに成功したのではないかと思いました。
そうやって、私が「今、自分は世界を覗いている」と認知できるだけの解像度を表せる言葉の基盤を作るのに、6年ほどかかったような気がする。
それでも壊れるのは一瞬なのだなぁと思った。
いや、壊れたのではなく、自ら消してしまったのだ。躊躇いもせず。
言葉をひとつ消せば、それに関連付いた単語も一緒に消えてしまうのだと知った。遅すぎた。
そうやってまた私の言葉の辞書はすかすかに、いや、特定の人間にとっては都合の良い(その場合相対的に特定の人間から見たら言葉の密度は濃くなるのだろう)言葉のみが並んだ辞書が完成しつつある。
それに落胆も感慨も無いことが哀しい。
人間は気を抜くと簡単に人形になれる。
それに抗うように人格を切り離しても結局人形の綻びは精神に深く絡みついていて、切り離しても切り離しても人形に落ち着いた本体がばらばらになって執拗について回るのだと知りました。
今はほんの少しだけ、ああ、また消してしまった。という哀しみに付き纏われてしまう。
その哀しみもじきに忘れたときと私の辞書の再生成が完了するのはきっと同じ時で、そのときは何かを語るに至るだけの言葉をもう持っていないのだろうなと諦念があります。
元々そんな器じゃなかった。言葉を持つなんておこがましかったのだ。諦めるしかないのでしょう。
遺せるものがあるうちはせめて遺しておきたい。
言葉を正しく失くし正しく死んだとき、死んだ私が過去として眺められるように。